2007/2/15 如月十五日




『生徒』と『学生』をきちんと使い分けている人はどれだけいるだろうか?

学校教育法によると、中学校、高等学校、さらには専修学校に在学する人を『生徒』、
そして大学、短期大学、大学院、高等専門学校に在学する人を『学生』と呼ぶ。
ちなみに小学校に在学する人は『児童』、幼稚園に在学する人は『幼児』である。
(尚、保育所の場合は学校教育法(文部科学省)の管轄ではなく、児童福祉法(厚生労働省)の管轄となる)


このように、法律ではきちんとした区分があるのにもかかわらず
言葉がきちんと選択されていない例には、

『病院』と『診療所』、(病床数(入院患者用のベッド)20以上なら病院、19以下なら診療所)

『アイスクリーム』、『アイスミルク』、『ラクトアイス』、『氷菓』
(乳固形分15%以上かつ乳脂肪分8%以上でアイスクリーム、
 乳固形分10%以上かつ乳脂肪分3%以上でアイスミルク、
 乳固形分3%以上ならラクトアイス、それ以下なら氷菓)

『牛乳』(生乳100%のときのみ牛乳を名乗れる、コーヒー牛乳などは不適切)

『ジュース』(上記と同じく、果汁100%でなければジュースを名乗れない)

などがある。妙に食べ物関係が多いな・・・・・・。



さらには、言葉が意味するところと、実際の使い方が食い違っているという乖離のパターンもよくある。
動力に電気を使っていないディーゼル列車(気動車)を『電車』と呼ぶのがよくある例だ。

--------------------ここからは鉄道に興味が無い人は読み飛ばすべし--------------------

ここで、車両に精通した鉄道マニアの人だと、「電気式ディーゼル列車」の存在が頭に浮かぶはずだ。

「電気式ディーゼル列車」とは、ディーゼルエンジンで発電した電気を用いて走る列車の事であり
通常のディーゼル列車と同じく架線の無い区間を走れるが、
その駆動に使われるのは電気エネルギーであるため、電車であるとも言える。

直流機が電動機の主流だった時代は、エネルギー効率の悪さや、
日本の地理的な特殊性もあいまって、殆どこの形式のディーゼル列車は皆無だったが
近年のパワーエレクトロニクスや半導体デバイス技術の発展により、
誘導電動機や同期発電機などが実用化されてからはこの形式が見直され、
北海道内で貨物列車を牽引するDF200形機関車がこの形式である。
よって、DF200形を見て『電車』と言う人がいたら、ド素人かマニアのどちらかだ。

もしかしたら将来は、現在主流である液体式ディーゼル列車に変わって
電気式ディーゼル列車が普遍的になっている事もあるかもしれない。
そうなれば、ディーゼル列車を『電車』と呼ぶ人たちを笑えなくなる。

--------------------わざわざ読んでくれた方、お疲れ様でした--------------------



しかし私はこんな言葉の違いについて、揚げ足を取りたいのではない。


このごろ、『学生』という言葉を使う人や場面と、『生徒』と言う言葉を使う人や場面を
少し注意深く意識してみたところ、ちょっとした法則を見つけた。


教授や大学職員などは、きちんと学生のことを『学生』と呼ぶのに対し、
大学生自身は、時折自ら又は自らを含めた集合、もしくはそれ以外の大学生を包括して呼称する際に
『生徒』を使う傾向があるみたいである。

これは一体どういうことだろう?

まず最初に考えられるのは、社会人である教授や大学職員などは、そういった言葉の細かな違いに対して敏感であり
きちんと使い分けを行っているのに対し、大学生はそのような言葉の違いに鈍感もしくは無頓着であると言う事。
以前『罵詈雑言』の件を見た私としては、この要素があってもおかしくないと考える。

だが私はこの事を含めて、実際に大学生自身が『生徒』と化してきているのではないか、と考える。
もちろん法律の定義では、大学に所属さえしていれば、
後はどんなに馬鹿だろうがアホだろうが引き篭もってようが『学生』になるわけだが
もちろんここではそんな事を言っているのではない。
大学進学率の上昇、大学全入時代の到来により、大学生1年生が高校4年生と化しているのではないか、と言う事だ。

高校生と大学生の違いが何か、と言われれば私も明確な答えを持っているわけではないが、
一応の回答としては、“学問に対する自主性”だと私は思う。
つまり高校では用意されたカリキュラムにしたがって、受験のため若しくは就職のための勉強を行う人が殆どだと思うが、
大学では自らがやりたい分野の学習や研究を行う事が本分ではないかと言いたいのだ。

が、今の大学生は実際どうだろうか?
単位を取得するために大学に来て、適当に講義に出席し、試験の直前に勉強して単位を取得し
後はサークル、飲み会、アルバイトの日々で4年間を過ごし、無難に就職活動をして内定を貰い卒業していく。
そこには学生本来の目的たる行動は存在しない。
全員が全員そうだとは言わないが、こういった人たちが多いのも確かである。

ただ上から与えられたカリキュラムをこなしているのに過ぎないと言う点では
これでは高校における『生徒』の勉強と一緒ではないか?



“楽しい大学生活”を送るのもいいでしょう。バイトに明け暮れるのもいいでしょう。
でも、大学生の本分はやはり“知の探求”ではないだろうか?
自分の好きな勉強を好きなだけ出来るのは大学生のうちだけですよ。

・・・・・・と言う方向で話を持っていきたかったのだが、よく考えると
「勉強を始めるのに遅すぎると言う事は無い」と言う私の持論と競合するのだよね、これ。
別に年を取ってからだって、好きなだけ勉強したければできるわけですから。
設備や機材が必要な理科系ならともかく、文科系においてはそういった物も不要ですし。

さらに言えば、今の時間は今しかないわけで
勉強に明け暮れた日々を送るという事は、その分他の時間が犠牲になっているという考え方もできなくはない。
いや、違うか。生きていると言う事が即ち勉強なのだ。
少しの好奇心と探究心、そして向上心を持っていれば、
何気ない日常生活を過ごしているように見えても、着実に経験値が蓄積されているわけだ。


さあ、自分の文章の流れを自分で否定してしまったぞ。
これが小論文とかだったら完全に失敗だ。まあ日記だからいいけど。

でもやはり、いくら生きている事が勉強だとは言えど、
この前の『罵詈雑言』すら知らなかった彼らを、『学生』だとは思いたくないな。
と言う事で結論としては、どんな学生生活を送るのも自由ではありますが
大学生として恥ずかしくない程度の知識と教養、そして常識を持ち合わせましょうと言うことで。