2008/1/26 睦月二十六日




AAA暦

1980年代中盤   札幌市内某所の病院で生まれる。

1980年代後半   殆ど覚えていない。当たり前か。

1989年      中の島幼稚園に入園。しかし幼児の頃から協調性は無かったため、色々と問題を起こすのであった。

1991年      中の島幼稚園を卒業し、中の島小学校に入学。
           小学校時代の殆どは、ビデオゲームに嵌っていたので全く勉強せず。
           それでもテストはほぼ全てが100点だった。そのせいで先生には
           「他の人はちゃんと勉強して100点を取るのに、
            お前はどうして勉強もしていないのに100点を取るんだ。自重しろ」
           などと理不尽な怒られ方をした。かと言ってわざと間違うと
           「100点取れるのにどうしてわざと間違うんだ、真面目にやれ」
           成績こそは良かったが、自分で勉強分野を見つけて学習することまでは頭が回らなかったため
           学校から帰ってずっとゲームばかりしていて親に怒られる毎日だった。
           自分が親になることが万一あるなら、子供に「ゲームするな」と怒るのではなく
           将来子供の為になると思われる興味関心の対象を与えてやりたいものだ。

1990年代前半   目の前で友人が交通事故に遭う。しかし当時小学生低学年の私は何も出来なかった。
           結局私以外の目撃者も無く、犯人は不明のまま終わった。
           あの対応の不味さは今でも少し心残りだ。

1993年3月    父方の祖父がお亡くなりになった。あの日の事は今でも覚えている。
           ある夜、突然に母から大金を渡され&タクシーに乗せられ私一人で祖父の入院する病院へ。
           私が病院についた数分後、まるで私を待っていたかのように祖父は息を引き取った。

1993年頃     小学校中学年にもなると、やはり私の特異性もあり、担任からは嫌がられる存在であった。
           何かしょっちゅう会議室だの職員室だの行っていたような。

1995年頃     小学校高学年。私が一番楽しかった時期の中のひとつ。
           放送委員会に入っており、ビデオカメラを駆使して様々な映像作品を作って遊んでいた。
           また、国家国旗法の成立を受けて給食時間に君が代を流したら、
           教師が慌てて飛んできたという事もあった。
           ある時「神戸の小学生に雪まつりの紹介ビデオを送ろう」と言うことになった。
           このくらいの年だと、だいたいこういうのに出演したがるのは女の子だが、
           「AAA、撮影はお前がやって来い」と言う事で、女の子3人と雪祭りに行く事に。
           こんな機会は後にも先にも小学生の時だけだな。

1997年3月    中の島小学校卒業。楽しい時間はひとまず終わる。
           5、6年の時に担任だった大牧先生にはお世話になった。

1997年4月    中の島中学校入学。あの当時の中の島中学校は荒れており、
           不良らが破壊活動、暴行、窃盗、あげくには放火までやらかしていた。
           そして私のような人間は、やはり彼らにとって格好の攻撃の対象となるようであり
           奴等から様々な不法行為を受けたものだ。私は彼らに対し、
           「反撃はするな、かと言って被害を放置するな、周りを巻き込め、できるだけ大事にしろ」
           と言う方針で対抗した。
           この方針を象徴するようなエピソードがある。
           ある日、奴等からの数発の暴行を受け、私は逃走したわけだが、さらにそこを後ろから蹴られた。
           ちょうどその場にあったのは火災報知用の非常ベル。私が考える事は一つだった。
           数秒後、学校中にベルの音が鳴り響く。私は奴等と共に職員室に呼び出されたが、そこでこう言った。
           「(非常ベルを押したのは)故意か偶然かはともかくとしても、
            蹴られなければこういう事態は起きなかったのは確かですね」
           先生はそれ以上何も言う事はできなかった。

1997年5月    美術室で転倒し頭部裂傷。出血が派手だったので死ぬかと思ったが、大事には至らず。

1998年5月    初めてデジタルカメラを購入。
           OLYMPUSのCAMEDIA C−420Lという35万画素機。
           当時、撮影した写真自体は解像度が低すぎて使い物にならず、記録としては残念だが、
           今の私の礎を築いた機体である。

1998年12月   不良撮影巻添事件。私が初めて警察と関わる羽目になった出来事である。
           前述したように当時の中の島中学校は、所謂不良が幅を利かせ治安は良くなかった。
           ある日、他校からやって来た不良が教員と玄関前で対峙する緊迫した状況になった。
           私はその様子を、デジタルカメラで上階の窓より撮影した。
           しかし、他にもカメラを持ってきていた輩がいて、事もあろうにそいつはストロボを焚いた。
           当然不良達は激怒し、教師と小競り合いになる。
           私は画像を削除したが、私がデジタルカメラを持ってきていることは教員みんな知っており、
           フラッシュを焚いたのも私だと思われたので、校長まで出てきて真っ先に説教される。
           後日、学校が場を設け、私ともう一人は不良に謝罪するが、不良達は尚更激怒
           机や椅子などの備品を滅茶苦茶に破壊するまで暴れた。(我々は退避)
           そして後日、警察に行って事の次第を調書にとることになったのであった。
           私と写真をめぐるトラブルは、最早この時からあったのである。 

1999年8月    ポケモンの大会に出る。中学生になっても、私のビデオゲーム三昧は変わらなかった。
           夏休みをフル活用して育て上げたポケモンを使い、他の対戦者達を蹴散らしていったが、
           5回戦にて小学生低学年の子供に負ける。
           いや、正確には小学校低学年の子供に負けたのではなく、その子の母親に負けた。
           何故なら、実際にコントローラーを握って操作しているのは、子供ではなくおばさんだった。
           妙にステータスも高かったし、多分育成も母親がやったのだろう。暇だな、主婦。
           6回戦以降はステージ上での戦いとなり、出場者本人以外は舞台に上がれなかったため、
           その子供は、6回戦で敗れていた。

2000年2月    北海高校を受験。面接で「あまりいいイメージが無い」みたいなことを言ったがあっさり合格。

2000年3月    札幌月寒高校を受験。
           受けた直後は「ああ、たぶん不合格だ」と之までに経験した事の無い絶望に襲われたが
           苦手の英語の模範解答を見て、案外良かったので、絶望から立ち直る。
           尚、この年は月寒高校は倍率1.1倍と穴だった一方、
           月寒高校より少しランクが下の平岸高校は倍率が高騰し、不合格者が続出した。
           もし平岸高校を受けていたら、不合格になっていたと思われる。運が良かった。

2000年3月    中の島中学校卒業。何だかんだ言って一番お世話になった教師は伏見教諭だろう。
           私がそれ以降、自然科学に対して他の分野よりも興味関心を持つようになったのは彼のおかげだ。

2000年4月    札幌月寒高校に入学。入学して直ぐは、時が流れるのが非常に長く感じた。
           今までに比べ、日々が非常に濃厚だったからだと思われる。

2000年7月    学校祭なんてやってられるかと逃亡する。
           学校祭は女の子と仲良くする絶好の機会だと気づいたのは大分後の事であり、
           今思えば非常に後悔している。

2000年9月くらい 初めて好きな女の子ができる。同じクラスの子だった。
           だからといって何かをしたわけではなく、たまに話す以外は特に何も無かった。
           この事は周囲には完全に秘匿していたため、私が日記に書くまでは誰も気づかなかった。
           尚、私が今まで女の子を好きになったことはこれまでの人生で2回だけ。

2000年12月   デジタルカメラを買い換える。
           今度はOLYMPUSのC−3000ZOOM。
           これ以降、やっとまともな写真が残っている。しかし、今見ると酷い写真が多いが。

2001年4月    私が発起人となり、鉄道研究同好会を設立。と同時に私が会長となる。
           顧問はJR全線乗車済の自他共に認める鉄ヲタ、関口紫乃風先生。
           ただ、他のメンバーはそこまで鉄道マニアと言うわけではなかったため
           そんなにディープな活動は行っていない。

2001年7月    社長の馬鹿野郎事件。
           学校祭準備期間中、鉄研メンバーのうち私を含んで4名は、その活動の為にJR白石駅に来ていた。
           そこで2人組のDQNよりカツアゲに遭う。
           しかし奴等も相手が悪かった。当時「ある意味月高一危ない集団」と言われた鉄研メンバーである。
           私が「何であなた方に金を払わないとならないんだ」等と時間を稼いでいる間に
           他のメンバーがDQNをデジカメにて撮影、写真を警察に提出したため
           奴等はいとも容易く逮捕された。
           何故「社長の馬鹿野郎」なのかといえば、私がそう叫んだから。
           所詮DQN、意味不明な事をすれば、「こいつはやばい」と思って去っていってくれる。
           もっと時間を稼いでも良かったのだが二発以上殴られておくメリットも無いので
           一発殴られた時点でこのキチガイ技を発動した。(一発殴られたのは相手に暴行罪を与えるためよ)

2001年12月   コイントス進路決定。当時、S馬物理とI崎数学にて理科系科目が崩壊していた私は
           自分は理科系に向いていないのではないかと思った。
           しかし、文系理系の類型選択は迫っていた。
           私は仕方なく、コインの裏表で類型を決めた。結果は文系、その通りに書類を出した。
           しかし私が本来文系に行こうと思っていたわけではないのは、誰の目から見ても明らかだった。
           この歪みが私の人生を大きく狂わせる事になる。

2002年2月    某匿名掲示板厨房事件。
           某匿名掲示板の厨房板にて教師の悪口を書きまくっていたところ、
           何故か書き込みが捕捉され、担任に呼び出される。
           尚、この書き込みは今でも残っている。ネットはこれだから恐ろしい。

2002年4月    当時の表現を用いると、パラレルワールド突入。
           現実の世界は「理系の進路を選択した私」であり、
           「文系の進路を選択した」今の私は、本来ありえない架空の世界だと定義した。
           そう考えた以上、私にはもはや現実に意味など無くなる。
           テストを白紙で出して、偏差値1.1という奇跡的な数字をたたき出したり、
           毎日のように遅刻するようになり、もはや学校生活を成していなかった。

2002年5月1日  当時持っていたWebサイト「Wind of Violet」上で日記を書き始める。
           知る人ぞ知る隠しコンテンツだったが、妙な読者がいた。
           隠しコンテンツにした理由は、Webサイトをある教師に監視されていたから。
           この日記を書いたことによって、私の精神状態はある程度安定していた。(それでも異常だが)

2002年5月26日 いくらパラレルワールドとはいえ、勉強しないのは非常によろしくない。
           そう思った私は、資格試験に活路を見出すことを考え、
           この日初めての国家試験、危険物取扱者乙種一類を受験する。
           これ以降、急速に資格試験にのめり込むわけだが、
           当時の私は、数年後の私がまさかここまでの死格マニアになる事は想像していなかった。

2002年7月    クラスみんなが一体になるはずの学校祭にて、超非協力的な態度をとり続ける。
           パラレルワールド論を用いると、「ここは本来私がいるべき場所じゃない」となるので
           あの頃の私がとる態度としては至極当然だった。

2002年7月4日  自分のパソコンを購入する。NECのLC950/3Eである。
           当時は最高クラスのノートブックであり、価格は30万円近くした。
           HDDや液晶の交換は行ったとはいえ、今でもこのマシンは現役である。

2002年7月20日 学校祭急速冷却事件。クラスPRという行事があったのだが、何故かそれに出場させられる。
           学校祭もクライマックス、最高潮に盛り上がったところで私の出番が来る。
           何をやったかはご想像にお任せするが、その盛り上がった空気を一瞬にして凍えさせた。

2002年10月頃   知る人ぞ知る暗黒時代の始まり。
            ある事をきっかけに「無から有を生み出す」と「不可能を可能にする」が融合し爆発的に昇華。
            あの頃やっていた事は、今思えば到底社会的に許容される事ではないが、
            当時は自分に正義があると本気で信じて疑わなかった。
            多くの物を得、また多くの物が私のもとを通り過ぎていったが、
            その代償として、一番大切なものを失った。
            人とのつながりが希薄になり、他者と接する機会が極度に減った状態にあると、
            他人の痛みに対して鈍感になる。人は人の中にいるからこそ人でいられるのだ。
            尚、この暗黒時代は2年間と少し続く。

2003年1月     初めて大学入試センター試験を受ける。いい科目はそれなりに良かったので
            北海学園は楽にA判定、室蘭工大もA判定だった。

2003年2月5日   トマム事件。この日は北大の願書締切日であったが、私は諸処の事情で期限内に提出できず。
            何か方法は無いかと、郵便局の倉庫に侵入するなどして手を尽くしたが、無理だった。
            失意のあまり、後先考えずに最終の釧路行特急に乗車し、列車のトイレで眠りについたが、
            酷寒のトマムで列車を降りた時、はじめて自分が置かれた事態の重大に気づく。

2003年2月     デジタルカメラを新旧交代。今度はOLYMPUSのC−730UZ。
            光学10倍ズーム機は、私が待ち望んで止まないものであった。

2003年3月     札幌月寒高校を卒業。何だかんだ言って高校時代は、
            友人と遊びまくっていたような気がする。
            しかし、パラレルワールド論を唱え始めたあたりからが
            不完全燃焼のように燻っているのが今でも心残りではある。

2003年4月     色々悩んだ末、浪人生活を送ることになる。
            自分はやらなかったからできなかったのだ、やりさえすれば北大程度楽に合格できる。
            そう考えたのが直接の動機だった。
            仮にこの年北海学園に入学していても、その思いがある以上、
            来年の再受験を前提とした学生生活にしかならなかっただろう。

2003年6月初頭   当時好きだった女の子の友人に、友人の友人を通じて、
            会う機会を設けてくれないかとお願いする。
            しかしその子から返ってきた答えは、「友達を変質者に遇わせたくない」だった。
            私が強烈なATフィールドを平気で展開できるようになったのは、これ以降。

2003年6月30日  運転免許を取得。ただし小型特殊自動車免許だが。
            普通一種を取得したのは、この18日後である。
            尚、船舶免許は既に17日前に取得済。

2003年8月27日  初めての本格的な一人旅。苫小牧から敦賀港へ、北陸を経て首都圏入りという行程。
            金沢〜富山を除いて全て新幹線や特急利用。今ならとても出来ないな。

2004年頃      この頃さいたまに長期滞在することも多かった。
            与野を拠点にして、さいたま市内や東京北部、東京東部などに良く行っていた。
            だから北与野、与野本町、さいたま新都心といった駅の付近はおなじみの場所。
            大宮や浦和などにも行きつけの店があったりする。

2004年1月     2回目のセンター試験。この頃はまだ、それなりに知り合いが会場にいた。

2004年2月14日  母方の祖父が逝去。私が最後に会ってから数時間後の事だった。
            この2週間くらい前まで、母は長らくの間祖父と会っていなかったが、
            私が名寄行のきっぷを渡し、母は暫くぶりに実家に帰省した。
            それからあっという間に入院、そして病状悪化・・・・・・
            私は運命と言うものは信じないが、あの時ばかりは私がきっぷを渡したのも、
            運命付けられた事だったのかもしれないと思った。

2005年1月     3回目のセンター試験。中学校の頃隣の席だった女の子に会った。
            この年のセンター試験が、過去に受けたセンター試験の中で最も成績が良い。

2005年3月2日   この日の朝、私は室戸岬にいた。母親から電話が来た。
            「あんた、北海学園の入学金、払うからね。北大落ちていたらちゃんと入りなよ」
            数日前に北大の試験を受けていたが、不合格はわかりきっていた。
            「好きにしろ・・・・・・」とだけ言って、私は電話を切った。
            月高において墓場と言われていた大学に入る事になるのか・・・・・・
            しかも現役でならともかく、いまさら・・・・・・。人生最大の屈辱だった。
            このまま海の藻屑と消えようかとさえ思った。

2005年3月     北海学園の入学書類を書いたわけだが、非常に腹が立ち、硫酸で焼き払う。
            結局、もう一枚書類を貰って提出したが、このとき焼いた書類は今でも保存してある。

2005年4月7日   北海学園大学入学式。ここから先は日記が充実しているのでそちらもどうぞ。

2005年7月1日   デジタルカメラを買い換える。今まで使ってきたOLYMPUSからCANONに乗り換え、
            PowershotS2ISを購入。
            操作性が大幅に向上し、これ以降やっと、今の私が見ても通用する写真が撮れる様になる。
            自分で見ても、ここから先と後では写真の出来が大分変わっている。

2005年9月11日  本日の宮崎県入りを持って日本の全ての都道府県に到達。
            これにて自己ルール「全ての都道府県に行くまで海外は行かない」の規定が解除。

2006年12月    デジタル1眼レフ、CanonのKissデジタルNを購入。
            機材より撮影機会に金をかけるスタイルを緩和する。
            しかし、ここ数年で一番良かった買物だと思っている。

2007年4月     コンデジをS2ISからSP550UZに変更する。
            再びオリンパスに戻ってきた格好になるが、
            Canonの高速ズームに慣れすぎた私にとって、SP550のズームは使い辛すぎた。
            結局、この機体は今は弟が使用している。

2007年7月5日   JR四国の全路線に乗車達成

2007年8月     コンデジをSP550UZからS5ISに変更する。
            しかしこの頃、KissデジタルNが大活躍しているため、
            昔に比べてコンデジの使用頻度は減る。

2007年12月14日 母方の祖母が鬼籍に入る。翌日、私は初めて死亡届を書き、提出した。
            何故か戒名にまで関与した。これで、名寄と言う町が遠くなった。

2007年12月23日 Canonのデジタル一眼レフ、40Dを購入。
            ここ1年くらい、写真機材に使った資金が多めだが、
            ボディの方は私の場合ここで打ち止めだろう。レンズはわからないが。

2008年1月19日  6度目の大学入試センター試験を受験する。



ふう、ふう・・・・・・。長い前置きだったが、センター試験得点予想クイズの結果発表ですよ。


今年の得点はこんなもの。

   現代社会   75
   地理     82
   国語    152(81・35・36)
   英語     66
   生物     62
   数学T・A  61
   情報関係基礎 90
   化学     77
   物理     74

諸般の事情により数学U・Bを回避して、情報関係基礎を受けてみました。
よって、数学U・Bの予想は、全員を正解といたします。

と言う事で正解は、

現代社会 2 地理 1 国語 2 英語 3 生物 2 数学T・A 2 化学 2 物理 2

以上。


昔に比べて、大分科目間の得点がなだらかになってきました。
英語が陥没しているのは昔から変わりませんが。

しかし、全く勉強しないのを何年も続けても、なかなか点数って落ちないものですね。

ちゃんと勉強したらどれだけ点数が取れるのか、ちょっと挑戦してみたくなってきますよ。



さて、来年の事を言うのはまだ早いと思いますが、
センター試験、来年も受けますかねぇ。それともとりあえず6回で打ちとめにしますかねぇ。

でも、生きているうちに、一度は全科目9割以上を取ってみたいですなぁ。
(もし取れたら、二次試験も受けます。もちろん合格しても入らないと思うけど)


私もつくづく、変な夢に駆られてしまったものだよ。
いつまでも夢は見ていられない事はわかっているのに、それでも夢に憧れる。


最近、リクナビでよく就職情報を調べるのですが、
私の行きたい企業・職種ははどこもかしこも理系学部卒しか採用していない。
まあわかっていたことだけどさ、でも理科系からは事務屋にもなれるのに
文科系から技術屋になれないのはやっぱり不公平だよね。

一応事務職採用でエントリーシートを出しておきながら、
志望動機などで技術職採用の人が書く様な内容で行くのも面白いと思っていますけどね、ニヤリ。
いったいどういう反応になるのかな?



何か、高校3年生の時とやろうとしている事が変わらんな。
文系を選んだけど数V数Cの教科書はきちんと買って勉強したりだとか、
わざと外形と乖離するような行動を意図的にとり続ける、進歩がないなぁ。


まあ、制度上の制約があったあの頃とは違って、
今回は企業の裁量次第では無理な路線では無いと思うから、
不可能を可能にできるか試してみるのも面白いかもしれないと考えているがね。




最後になるが、漫画やアニメなどにおいては、
こんな風に登場人物が自分の過去について語り始めた場合、だいたいその後の運命は決まってくる。

そう、俗に言う死亡フラグと言うやつである。



今の私には、死亡フラグへと発展しそうなリスクが山ほどある。
顕在化しなければいいと願っているが・・・・・・。(じゃあわざわざ死亡フラグ立てるなよ)