2007/9/16 長月十六日





小樽は札幌の隣街にして北海道の中でも有数の観光都市である。

今でこそ小樽と札幌の人口は十数倍の差があるが、北海道に開拓史が入ったばかりの頃は
小樽は札幌よりも賑わいがあったのである。


そんな小樽の街では、ご当地検定である“おたる案内人”検定が行われており、
本日の検定が第2回の検定試験となる。

札幌シティガイド、北海道観光マスターの保持者である私は、
隣町の観光検定試験も取得して幅を広げようと考え、おたる案内人検定を受けることにしたわけだ。

ただ、おたる案内人検定試験のテキストの中の表記を鑑みるに
この検定試験は、小樽市民が受検することを想定して作られている事が伺える。
隣町の住人とは言え、小樽市民では無い人間がどれほど戦えるかは少し不安だ。




ということで小樽駅前到着、もう何十回来ているかわからないがな。

試験会場は商大なので、小樽駅前で小樽商大行のバスを待つ。

日曜日のこの時間、このバスに乗る人など居ないだろうと思っていると
バス停に樽商の女子高生が次々と集合してくる。

ちなみに小樽以外の人は、小樽商科大学のことを“樽商”と呼ぶが
小樽の人は小樽商科大学は“商大”と呼び、“樽商”と言えば小樽商業高校のことを指す。
本文中でも、小樽の人の呼称に従って記載する事とする。

樽商と商大は方角が一緒なので、乗車するバスも一緒なのよね。

結局、バスが出発する頃には、バスの中は女子高生で埋まった。
(よく見ると女子大生も1人いるようだが)
私以外の乗客はほぼ全員が女子高生、何か妙な場所に迷い込んでしまったような感じだ。

私1人異分子が混入しようが、彼女らにとっては全く影響は無いようで
みんなそれぞれ大声で会話しているので非常に姦しい。
そして会話の内容が・・・・・・一応公共交通の中なのだから、少しは自粛してほしい。

樽商前のバス停にて一気に人が減り、ほどなくして商大に到着した。


商大まで到着する前に上ってきた“地獄坂”、昔は本当にきつい坂だったとか。


別に私は商大と縁があるわけではないが、その割にはよく来るな、ココ。



さて、おたる案内人検定について少し解説しておこうか。

この試験は、京都検定や、東京シティガイドなどといったご当地検定の一つである。
観光都市である小樽の魅力を多くの観光客に伝えるため、
小樽観光の本質を捉えた人材育成を目指す事を目的として行われる試験のようだ。

受験資格は特に無く、小樽市民に限らず誰でも受験する事が可能だが、
1級を受験するためには、事前に開催される5回の講座を受講する必要がある。

試験問題は1級、2級ともに一緒だが、合格点は1級が70点、2級が60点である。
尚、2級で70点以上を取れば、来年の1級用の講座を受講する事により、1級の認定が受けられる。
つまり1級受験の条件である講習受講は、後付けも可能と言う事だ。

ということで私の目標も、70点を獲得することにある。


本日の受験者は1級、2級ともそれぞれ20名強、1級の受験者の方が少し多いみたい。



ということで試験問題が配られ、試験開始。

記述式の問題が100問中37問か。
札幌シティガイドや北海道観光マスターは、全てが選択式の問題だったので
それに比べてやはり難しいと言えよう。

そして歴史分野からの出題が多いのも、やはり北海道の中では歴史が深い小樽ならではの特徴だろうか?
まあ、テキストの多くの部分が歴史に裂かれていたので想像はできたが、
私はどちらかと言えば、全般的に歴史より地理の方が得意な人間なので、ちょっと辛い。


試験会場から出ると同時に、解答が手渡されるのでその場で合否を判定する事ができる。

結果 44/100

・・・・・・何だ、この点数は。
こういったご当地検定は、大抵予備知識が無い状態からのスタートになるので単純な学習不足が原因だろう。
記述式を8問しか正解出来なかった事からも明らかだな。
(やはり、旅先にテキストを持っていくべきだったか・・・・・・)
まあ今回はちょっと侮り過ぎて落としたが、出題傾向も掴めたし、もう一度受ければ次はおそらく大丈夫だろう。



そういえば、今回の検定に際して思った事がある。

この試験を受けるためにテキストを読む前までは、小樽についてあまりにも何も知らなかった事に驚かされた。
隣町だし、何十回も訪れている街だし、それなりに小樽の事は知っていると思っていた。

しかし街の歴史と言うのは、意識して知ろうとしなければ
いくらその街を訪れたとしても、身に付く事は無いと言うことがわかった。


例えば、小樽を代表する観光スポットである小樽運河だが、現代までその姿を残しているのは必然ではない。

そもそも小樽運河は、小樽港の港湾施設として建造されたものだが
当初小樽港は、運河式はなく埠頭岸壁式で建造される予定だった。
しかし廣井勇(この人物は小樽を語るにおいて欠かせない)氏の指摘により運河式での建造が決まり
その後も利権や許認可などの諸般の事象で紆余曲折があり、小樽運河が完成したのだ。

ということで大正時代に完成した小樽運河だが、月日が流れ、昭和40年頃には既にその役目を終えていた。
役目を終え放置された運河は景観的にも美しくなく、市民からも不評であった。
昭和46年、札幌と小樽を結ぶ札樽自動車道が開通し、
小樽運河も埋め立てて道路にする計画があり、
その道路建設の為に、まずは運河の両側にあった石造りの倉庫群が破壊された。
しかし、小樽運河を残そうと言う事で、小樽市民25名が立ち上がり、
道路整備の為に埋め立てられようとしていた小樽運河を残そうと運動を行った。
その後、小樽運河を舞台としたポートフェスティバルを行うなど様々な活動を行った結果
商工会議所を始めとした小樽経済界も道路建設を翻して小樽運河保存に方針を転換した。

その結果、運河が小樽の街に現在も残ることができたのである。


こういった経緯を知っているのと知らぬのでは、やはり同じ場所を見るのでも全然印象が変わってくる。
ただ今を見るだけでは、視覚から得られる今しか見られないが、
歴史を知りつつ見ることにより、当時の情景を脳内で補完しつつ過去に思いを馳せる事ができるのだ。


ということでせっかくなので小樽運河へと足を運ぶことにしよう。


少し前まで鉄路展が開かれていた手宮線跡地。もちろん検定の問題に出ます。

小樽運河、三連休の中日だけあって、かなり賑わっていますね。



せっかくここに来たのだ、ちょっと浅草橋まで足を伸ばしてみよう。
多分あの人が・・・・・・いましたいました。

少しだけ天気雨が降ってきたので、カメラの防水対策中のようです。
暫くベンチに座って生暖かく様子を見守る事にする。


次々と通り過ぎていく観光客、留まっている商売人の人たちなどを眺めながらうろついていると、
遂にころな氏に見つかってしまった。

ころな「あれぇ?何でこんな所にいるの?1人?」
AAA  「おたる案内人検定を受けにきたんですよ」
ころな「なにそれ?」
AAA  「赫々云々な検定ですよ、今回はちょっと準備不足で落ちましたが」
ころな「ばーか、ばーか」
AAA  「へぇー、じゃあいつも小樽にいるころなさんなら出来ますか?問題、ありますよ」
ころな「あ?問題あるの?どんなのさ・・・・・・何?手宮線の敷設に貢献した外国人?
    最初の小樽区長?・・・・・・わかるか、そんなもん!」
AAA  「まあ、普通の人は知らんでしょうな」
ころな「これ歴史とか漁業関係とかそういうのもあるじゃん、ただの観光検定じゃなくて」
AAA  「“案内人”ですから、折角だから次会ころなさんも受けませんか?」
ころな「俺がこんな検定取ったって仕事上なんの役にもたたねーよ」

まあ、私は次回も受けるだろうが、今度は入念な準備をして、だな。


AAA「ところで、あそこにいる楽器持ったじいさんは何ですか?」

ころな「ああ、アレ?あれはいつもあそこで演奏しているんだけど・・・・・・」
(ころな氏が言い放った続きは画像をクリックしてください、但し罵詈雑言が嫌いな人は止めておくことを推奨)

楽器を演奏する人は、写真のじいさん以外に、バイオリンを持った女の人がいるらしいが、
そちらはなかなか上手だとか・・・・・・。

まあそんなこんなで、小樽の観光事情や、昨今の写真事情、
さらには運河を彩る愉快な人たちの話などしつつ、かれこれ2時間くらい小樽運河で時間を過ごした。



自らが住む街についてはともかく、ちょっと隣の街に行ってみれば知らない事ばかりだった。
歴史についてもそうだし、地理についても、札幌市星置から小樽市星野町に入った瞬間から一気に脳内地図が薄れていく。

もっと小樽へ行こう、もっと小樽を知ろう。
写真家的には、まずは小樽八区八景を全て巡ってみようかね?