2007/10/30 神無月三十日




最近、表立って書けないような内容の日記が増えているなぁ。

昔、つまり“鉄道研究同好会 Wind of Violet”の時代や、
死格初期の、周囲の人間がサイトの存在を知らない時代ならば、好きなことを書き放題だったのだが
今現在、私の周囲の人間に自分のサイトの存在が知られている状態では、
掲載できる内容に少しだけ制限がかかってしまう。
基本的には誰が見ていようが書くわけだからね。

犯罪自慢や理由無き誹謗中傷、個人情報の暴露などのような
掲載する事が社会的に許されないような内容については当たり前だが、
それ以外に、私の私的な権利利益に関わる内容であり、掲載する事には法的問題はないが
ある一部の人間には見せたくないような内容の取扱、これが正直困る。

困るならば掲載しなければいいじゃない、と思うだろうが
私の場合、この場所こそが本音をぶちまける場となっており、
ここで一種の発散をしている部分があるので、単純にそうすることもしたくない。


そうなると、私が行うのは婉曲的・比喩的な表現である。
私の日記を読んでいると、たまに なんだこれ? という表現が見受けられることがあると思うが、(たまに、かな?)
あれはわかる人にはわかる(と少なくとも私は思っている)表現なのだ。
時にはそれはある分野に対する知識で振り分ける方法をとったり、
またあるときは、私の現在おかれている状況を知っている近しい人にだけ伝わるように書いたりする。

ただ困ったのは、私の身近にいる方々だけには知られてはまずいが、
ネット上の知り合い等には、その意味するところを伝えたい場合。
こういうときのいい表現方法が見当たらない。
つまり事実上、そういう篩い分けはできないのだ。


ちなみに旅行記や死格体験記が主体となっている場合は、知られて困る事などまず無いので
できるだけ明瞭な表現を使うように心がけている。
毎日がこういう日記で終わればいいのだが、日々旅にして旅を栖とすることはできないし
毎日のように資格試験を受け続けることもできない。
となると、日常について書くことになるわけで、やはりシークレットにしなければならない部分も出てくるわけだ。


出来るだけうまい婉曲や比喩を考えるのはなかなか面白くはあるのだが、
この方法にも弱点があり、解釈が分かれて誤解を招く事があるのだ。

そうやって複数通りの意味に取れる文章を書くのは、
小説や詩などのように、各人に解釈の裁量権を残し、見るものによって様々な意味に受け取れる方が
面白みがあるタイプの文章ならばいいのだが、
日記はあくまでもそうやって想像力で楽しむタイプの文章ではないため、
曲解が生まれるのはあまりいいことではないような気がする。


秘匿性を確保するための方法としては、美櫛を使うと言う手もある。
ただ此方も、そこまで使い勝手が良くない。
副アカウントはそれなりに面白いがな。


日記を公開し始めてから大分時間がたった。(途中大分抜けているが)
高校時代は本当に書きたい事を適当に羅列していただけだったが、
それから色々とあり、日記の様態も少しずつ変わっていった。

私の人生、これからどうなるかわからないが
表立って書けないような内容があまりにも増えてきたら、掲載を中止しなければならないこともあるのだろうか?
職務上の秘密保持義務に抵触するので日記書けません、とか、
公職選挙法に触れるから日記かけません、ならいいのだが
アングラに潜るから日記を書けません、みたいな人生はあまりよろしくないな。
考えたところで仕方ないが。

今抱えているあの事案についても、いつの日か平文で日記に書いても平気な日が来ればいいのだが。